村上水軍で唯一大名となった来島通総の「信用」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第83回
■苦しい時代に培った秀吉からの「信用」
織田方についた来島家は一部の家老が離反した上、毛利家の支援を受けた河野家から攻撃を受けます。
本能寺の変で信長が斃され、来島家は苦境に陥りますが、降伏しませんでした。当主の通総は秀吉の幕下へ一旦逃れますが、庶兄の得居通幸(とくいみちゆき)が鹿島にて籠城して抗戦を続けます。この時、毛利方についた能島村上家の村上武吉(たけよし)父子と戦っています。
その後、秀吉が織田家中で権力掌握に成功した事で、早くから誼を通じていた通総に対して、毛利家は手出しできなくなります。この頃に秀吉が「来島」と親しく呼んだことから、村上から姓を改めます。
秀吉の力により、毛利家の同意の上で本拠地の来島への帰還が認められます。そして、四国征伐では毛利勢と共に出陣し、戦後の論功行賞で通総は1万4千石を与えられて独立大名となります。
一方、同族の能島村上家は豊臣政権に非協力的だったこともあり、小早川家の預かりとされ、その後、毛利家の家臣となっていきます。因島村上家は毛利家に近かったため、1582年ごろから家臣化が進んでいました。
他家が没落していく中、来島家は豊臣政権の水軍の一翼として、九州征伐や小田原征伐にも参加していきます。
■「信用」で得た地位が招いた苦難
来島家は四国勢として文禄の役にも参加しています。福島正則(ふくしままさのり)の五番隊に加わり転戦し、途中で水軍に組み込まれて戦っています。その縁もあってか、通総の嫡子長親の妻に正則の養女を妻に迎えています。
慶長の役にも、兄通幸と共に600の兵を率いて参戦しています。南原城攻略戦などの陸での戦いに従軍していましたが、前回同様に途中で水軍として活動します。
鳴梁海戦(めいりょうかいせん)においては先鋒として戦ったものの、敵の攻勢を受けて来島家は大損害を受けた上、当主の通総が戦死してしまいます。また、長年に渡り通総を支えてきた兄通幸も戦死したため、以降の来島家は水軍として非常に苦しい立場に立たされます。
この敗戦は、来島家が独立した水軍として認められていた事で、小規模な部隊編成となってしまったのが原因の一つとする説もあります。同じ水軍の藤堂家は2800、加藤家は2400、脇坂家は1200という編成に対して、来島家は600でした。
多くの兵を失った来島家は、関ヶ原の戦いでは西軍に加わったものの、大坂城近辺の警備程度しかできなかったと言われています。
家督を継いだ長親も豊臣家からの「信用」にわずかながらでも応えようとしたようです。
■「信用」に応えきることの難しさ
通総は、他の村上家が毛利家などの家臣として取り込まれていく中で、秀吉からの「信用」を得たことで、小規模ながらも大名として家名を残すことに成功しています。
しかし、最後は「信用」に応えるために果敢に戦った結果、来島家が長く培ってきた水軍力を失う結果に繋がってしまいました。
現代でも経営陣からの「信用」によって過大な地位を得たことで、過酷な環境に飛び込まざるを得ない状況に陥ることは多々あります。
通総が他の村上家のように、毛利家や小早川家に取り込まれていれば、慶長の役で戦死することは無かったのかもしれません。
ちなみに、長親の妻が正則の養女だったことで、御家の取り潰しを免れ、豊後国森に1万4000石で入封する事を許されて、来島家(久留島家)は明治まで存続しています。
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